ペットボトルが遠ざけるもの

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【こんなのどうでしょう?】コードギアス 反逆のルルーシュ R2 volume04
ジャンル:
かきもの
シリーズ:
種類:
読みもの
最終更新:
2004年04月04日 14時31分
シリアル:
2003-09-17-02
(2003年9月17日)

街角にペットボトルのある風景、というのは、いつの頃からかまったくありふれたものになってしまった。

僕がそれに初めて出会ったのはおそらく1994年の夏、渋谷でレイトショーを見た帰りに、夜の松濤を一人でぷらぷら歩いていたときだったと思う。

松濤は東京ではわりあい由緒正しい高級住宅地で、区画や道路が折り目ただしく整備された坂と高台の町である。美術館や能楽堂もある文化の香り高い場所なのだが、ここに400メートル以上つづく直線道路がある。

駅方面から松濤を抜けて家へ帰る場合、まず文化村通りを上流して東急本店の前で左に曲がり、Bunkamuraと郵便局の間の坂道へ入る。資材搬入口を過ぎた左手に広い脇道があり、その先は急旋回の曲がり坂になっている。坂は中学校に突き当たって終わるので、そこで左へ折れ、鍋島松濤公園のがさがさした生け垣をわき目に信号のある十字路まで進む。右へ曲がると、その先にくだんの道路がある。

ここは中央線のない生活道路だったと思うが、それがもったいなく思えるほど幅が広かった。ガードレールも段差もなく、視界を邪魔するのは道路脇に一定の間隔でつづく電信柱と街灯、道路標識だけ。いちばんの特徴は高低差がないことで、交通量のない深夜にこの道を歩いていると、はるか前方の山手通りを過ぎてゆく車のヘッドライトがちらつくのがときたま見えたくらいだ。坂やいりくんだ構造の多い東京では、こういう街路は実はわりと珍しい。

深夜なので、左右の家々の明かりはほとんど落ちている。ところどころにあたたかい明かりの見える窓はあるのだが、それらの窓に人影が写っているのを見たことは一度もない。だだっ広い道路の両側に続いているのはどれも生活感の薄い大邸宅で、歩いているとどことなくシュールな感覚があった。

そんな閑静な町の一角にペットボトルが異様にたくさん置かれていたものだから、強烈な印象となっていまも記憶の中に残っているわけである。街灯でぼんやりと照らされた電柱や塀の下に、水をなみなみとたたえたペットボトルがいくつも安置されている光景は、場所が深夜の高級住宅街であるだけに非常にインパクトがあった。意図がわからないのだからなおさらである。

それが徘徊する猫を追い払うために置かれていると知ったのは、しばらくたってテレビのニュースを見てからだった。太陽の光がペットボトルに反射して輝くのを嫌って猫が近寄らなくなると聞いて、なるほどあれはそういうものだったのかと納得した覚えがある。

ペットボトルが遠ざけるもの (2)

(2003年9月18日)

Webに存続するものの中では、大阪府和泉市にある桃山学院大学社会学部社会学科の学生が、94年に「人間学基本演習」の報告として出したレポートのなかに、当時の空気をそのまま残したものがある。これは地元で8月23日におこなわれた「地蔵盆」のレポートを中心としたもので、それに前だって6月6日から同地域で聞き取り調査をしていたらしい。地域名は明記されていないが、文中に「春日神社」という名称が登場することから、同名の神社の存在する同大学和泉キャンパス付近、和泉市春木町での調査かと思われる。

第1弾 ペットボトルの謎

私たちが、細い道を曲がって奥に入って行くと、そこには何軒かの住宅があり、その付近の家のまわりには大量のペットボトルに水をいれて並べてあった。それも、1軒だけでなくほとんどの家の前に置いてあった。私たちは、なぜペットボトルが置かれているのか解らないので、その1軒の奥さんにインタビューをこころみた。 その奥さんによると、そのペットボトルは『猫よけ』であって、ワイドショーで効果があるといっていたので置いているようだ。やはり、奥様方には「ワイドショー効果」は大きいのだろうか。しかし、最近は水を入れたペットボトルが虫めがねの役割をして、火災になった事件があるので、くれぐれもご用心!!

水入りペットボトルを知らない学生がいたこと、ほとんどの家の前に置かれるほど流行したこと、ワイドショーで報じられて広まったこと、火災になった事件があると言われていたことがわかる。


この文章を書くにさきだって台東区周辺の住宅地を歩いて眺めてみた結果では、水を入れる容器として用いられるのは圧倒的に飲料用のペットボトルだった。容器のサイズは、以前は1.2リットル・1.5リットルの大形のものがほとんどだったが、外国産ミネラルウォーターの一般化と国内メーカーの小型ペットボトル解禁(96年)にともない、500mlのミニペットボトルもよく利用されるようになっている。まれにプラスチック製の醤油・酒類の容器の姿も見られた。

水量はたいてい、満水・7〜9分目・3分の1程度どれかである。ラベルは剥がしてあるものも、そのままのものもある。縦置きが多いが横向きのものもある。

表通りよりは横道や路地に多く設置されている印象がある。電柱の下や塀や建物の壁に添うかたちで、あるいは建物の角の部分の地面に設置されていることが多い。植木鉢や花壇を守るように置かれているのもよく見かける。日当たりの悪い場所に設置されているものも多く、まれにまったく日の当たらない場所に設置されているものもある。猫の通り道やたまり場を邪魔するためかもしれない。すくなくとも都心部では、設置にあたって日当たりはあまり考慮の対象になっていないように思う。

容器の種類や大きさ・ラベルの有無・水量や設置場所は、作法・こだわりをもって設置している人が多いように見えるが、全体として見たときに顕著な傾向や特徴があるかどうかには疑問がある。おのおのが独自のルールに基づいて自由におこなっている印象が強い。

材質は透明度が高く色が入っていないもの、表面に凹凸があって反射が美しいものが好んで使用されているが、これは凹凸があるほうが剛性に優れており、耐久力が高いという理由もあるかもしれない。


水入りペットボトルは「猫よけペットボトル」「キラキラ」「猫水」などと呼ばれることもあり、名称の上でほかの動物と結びつくことはない。猫とペットボトルは、町を歩いているときに水入りペットボトルを見たら、まず最初にこれは猫用だと思うほど強く結びついている。猫に迷惑しているという話題では、冗談半分にしてもペットボトルの話が出ることが多いが、ほかの動物に関しては結びつきは強くない。

メディアや口述で伝えられるたいていの話では、猫はペットボトルに反射した光を嫌がるか、ペットボトルにうつる自分の顔に驚いて近寄らなくなることになっている。ペットボトルは猫だけに効果があり、ほかの動物には影響を及ぼさないと思われている場合もある。Web上の例としては、PCサポートとSOHOの情報サイト「なんでやねん」2001年10月のコラムに次の記述がある。

まぁしかし、日本でもどうしても猫はペットとしてかわいがられる反面、影というか暗いイメージもついてまわっていることは確かだが。化け猫はあっても化け犬はきいたことないし、猫よけのペットボトルはあったが、犬よけのペットボトルはきいたことないし。

この記述からは、コラムの書き手が、ペットボトルは猫に効果があるとされているが、その効果は犬には及ばないと考えていることが読みとれる。


ペットボトルが遠ざけるもの (3)

(2003年9月19日)

ブームというものがたいていそうであるように、この水入りペットボトルの熱もやがておとろえていった。設置したのに効果を実感できなくてやめてしまった人もいただろうし、ペットボトルが光を収斂して火事が発生した、あるいはしかけた事例もあったらしく(たとえば高松市消防局では高松市内の例として紹介している)、それも衰退の一因となったらしい。いくつかのテレビ番組で、実際に猫とペットボトルを使って実験した映像が流れたのも影響をあたえたかもしれない。僕もそのひとつを見たことがあるが、周囲をペットボトルで囲んであるにも関わらず、猫はゆうゆうと、ペットボトルには目もくれずに餌をぱくついていた。

それでも水入りペットボトルの神話あるいは伝承は、いまも日本の一部でたしかに生きつづけている。すこし町を歩けば、誰でもその残滓を目にすることができるはずだ。Webでも冗談の種、あるいは半信半疑程度の記述が大多数を占めるが、ごく少数ながら肯定的に取り扱っていた時代のなごりもある。そのひとつ、TDKのサイトに掲載されている「じしゃく忍法帳」というコラムの第36回、「カラス撃退に磁石?」には次のように書かれている。(これは98年12月にWeb に掲載されたものなので、文中の「5年ほど前」は94年前後を指していることになる)。

ところで、近年、道端や住宅の周囲に、水を詰めたペットボトルが置かれている光景を目にするようになりました。これを防火用と勘違いしている人がいますが、実は猫よけを目的とするものです。

猫は決まった場所で用をたす習性があり、舗装道路の多い都会では、住宅の庭や花壇などがトイレがわりに使われることが多いようです。ペットボトルを置くのは、猫の尿害・フン害に業を煮やした住民の苦肉の策。実際にかなりの効果があるようで、マスコミでも紹介され、5年ほど前から全国的に広がったといわれます。

(中略)…この猫の習性を最初に発見した人は誰か定かではありませんが、忍者なみの鋭い観察眼の持ち主といえるでしょう。

また、水入りペットボトルに固執するある人々は、効果を発揮させるには一定の作法が必要なのだと主張する。たとえば、ペットボトルをある間隔で配置することによって反射光が互いに干渉しあい、はじめて猫を遠ざける力が得られるのだと。効果がないのは本数が足りないからだとして、やみくもに数の増加に走るケースも見られる。

だが、人々がいまも水入りペットボトルを街角に置きつづける理由は、それが実際に猫を駆除する効果があるかどうかとは、もはや違うところにあるのかもしれない。

ペットボトルが遠ざけるもの (4)

(2003年9月20日)

資源有効利用促進法、通称リサイクル法が制定されたのが91年、環境基本法が制定されたのが93年、97年に施行されることになる、ペットボトルやガラス瓶等の分別収集を進めるための容器包装リサイクル法が公布されたのが95年の6 月。80年代末から90年代前半にかけては、エコロジーやリサイクルに対する関心が高まりつつあった時期であった。

とはいえ、リサイクルに対する理解は現在ほど進んでいなかった。再生可能な資源を「回す」ことではなく、家庭や身近な場所で「再利用」することがリサイクルだと信じている人も多く、さまざまな「再利用」のテクニックが、たとえば今日で言うと100円グッズを組み合わせてあたらしい利用法を考えるのと同じような「かしこい主婦の知恵」として喧伝されていた。水入りペットボトルはこのような文脈の中で登場して脚光を浴びることになる。これらの「再利用」は、厳密な意味ではリサイクルとは呼べないのだろうが、すくなくとも人々の、資源になりうる物質をそのまま捨てる、あるいは次のサイクルに渡すことにともなう罪悪感を軽減するのには役立ったのだ。

必要な労力と費用が少ないのも、水入りペットボトルが流行した大きな要因だったろう。なにしろペットボトルと水があればいいのだから、それこそ「湯水のごとく」という言葉があるくらい水資源が豊富な日本でこれを用意するのは簡単である。半信半疑のまま、効果があったらめっけものくらいの軽い気持ちで試してみた人も多かったに違いない。猫は脅えて逃げるだけで肉体的に危害を加えるわけではないといううたい文句にも、心理的な障壁を下げる効果があった。

試しに水入りペットボトルを置いてみた人々は、そのオブジェクトの持つインパクトに驚いただろう。そして一部の人は、それがメッセージとして働きうることを発見したのだ。


90年代、猫を放し飼いにする風習は、都市部でも現在よりもっと一般的だった。ふらりと来訪する動物たちに餌をあたえるが、それ以上の干渉はおこなわずに「自然」のまま放置するという関わりかたが、ごく当たり前のこととして容認されていた時代である。

「地域猫」という言葉もなく、徘徊猫に不妊手術をほどこしてバースコントロールしようとする運動も都市部で始まったばかりだった。これらの運動がまがりなりにも認知され、猫の屋内飼いに関するコンセンサスが広まってゆくのは、2000年に施行されることになる改正動物愛護管理法に対する注意と論議が高まってゆく90年代後半ではなかったろうか。

横浜市磯子区の「地域猫」運動がマスコミでとりあげられたのが1997年。Webで活動する動物愛護団体には活動収支や実績を公開していないものも多いのだが、飼い主のいない動物に不妊手術を行なっている団体の中でそれらの情報を明らかにしており、歴史が古いもののひとつと思われる「不幸な犬猫をなくすネットワーク」が活動を始めたのが1990年。東京都動物愛護管理審議会は98年7月に「猫の適正飼育推進策と動物取扱業者の指導育成策について」の諮問を受け、99年3月に答申を行なっているが、この中で「東京都における猫の飼育実態調査の概要」という資料がまとめられている。これによると東京都内の猫の総数は推定116万頭、うち飼い猫は105万頭で、その中の42.6%, 45.2万頭が屋外飼育されていることになっている(とは言え、大部分は屋内飼育との兼用であり、屋外のみで飼育されているのは2万頭程度)。答申の中で「今日の都市にふさわしい猫の飼い方は、屋内での飼育、不妊去勢手術、身元の表示を行うことである」と提言されているのが特徴的である。

1996年には人工繁殖を目的として捕獲されたツシマヤマネコから猫免疫不全ウイルス (FIV) がはじめて確認されてニュースとなった(→長崎新聞の関連記事。FIVは86年にアメリカで発見された)。これがFIVに対する関心をあらためて呼び起こし、外猫の感染率の高さがから、屋内飼育の重要性が喚起されたとも考えられる。

徘徊する動物の所作や糞尿に迷惑する人々は、それまで弱い立場に立たされていた。まず、日本では歴史を通じて長い間、猫の放し飼いが一般的であった。当たり前とされることに意義を唱えるのは難しい。また、どの猫が原因であるのかを突き止めるのが難しく、判明したとしても飼い主がわからない、あるいは責任者が存在しないことすらあった。猫撃退用の道具を購入するにしても、なぜ迷惑している側が出費を迫られるのかという思いがあっただろう。

それ以外には、彼らは怒りをかかえたまま鬱屈するか、周辺住人にあたりちらしてエキセントリックな人物であるという称号を授かるか、矛先を行政にむけるくらいしか手段がなかったわけである。彼らが高圧的に見えた、あるいは行政を動かした結果もたらされる事態が重大だったとしても、非人道的で動物愛護の精神に反すると糾弾される危険があるために、彼らの道義的な立場は常に弱かった。徘徊動物の害に困っている人すべてが過激な解決法を望んでいたわけではないのだから、不満を持ちながら黙っていた人は多かったのだ。


そこに水入りペットボトルがあらわれる。

それは最初、純粋な猫よけの道具としてはじまった。しかし、見たものを驚かせずにはおかない印象の強いその物体は、すぐさま別のものとして再発見される。つまり、メッセージの媒介手段として。水入りペットボトルは、「あの人は冷たい変わり者である」と後ろ指をさされることも、実際に動物に危害を加えることもなく、また近所の人間関係に波風を立てるほど過激でも直接的でもない方法で、ペットの飼い主や動物愛好家に異義を申し出ることのできる道具となったのだ。

その意味では、水入りペットボトルは、さまよっている動物に餌をやることは善であり、それらの動物は近隣の住人すべてに愛される存在であると信じる人々に対する、有形無言のアピールであった。素朴な動物愛護観に対するカウンターカルチャー的な存在であったとも言えるかもしれない。

だからきっと、たとえ実際の効果が否定されたとしても、猫に迷惑している人がいるかぎり、もっと正確には、近隣の猫を世話する人に迷惑している人がいるかぎり、水入りペットボトルは日本の都市民俗の中でささやかに存続してゆくことになるのだろう。

ペットボトルが遠ざけるもの (5)

(2003年9月21日)

だけど、とあなたは言うかもしれない。効果がないなら、なぜこんなに噂が広まったの? ここまで噂が広まったのは、水入りペットボトルに効果があるからじゃないの? と。それではこの話が都市伝説であり、実際の効果と噂が普及するかどうかは関係ないという証拠をお目にかけよう。登場するのはひとりの社会学者と、南半球に位置するとある島国である。

ジャン・ハロルド・ブルンヴァン (Jan Harold Brunvand) という人がいる。アメリカの社会学者で、消えるヒッチハイカーチョーキング・ドーベルマン(日本語版はのちにドーベルマンに何があったの?に改題)・メキシコから来たペット等の著書がある。都市伝説に興味がある人なら間違いなく名前を知っているほどの有名人で、日本では新宿書房から訳が刊行されている。日本語訳はされていないが、Encyclopedia of Urban Legendsハードカバー版 / ペーパーバック版)という本も書いている。

『消えるヒッチハイカー』は日本でも有名な都市伝説で、日本ではヒッチハイクという行為が一般的でないせいか、もっぱら舞台をタクシーにうつした『タクシーの幽霊』として語られる。なんだか不気味な印象の客が乗りこんできて、たとえば東京なら青山墓地のような場所へ行ってくれと頼み、いざその場に到着して後ろを振り返ってみると姿を消していたという話である。ヒッチハイカーはその場に現われたあかしとしてなにか予言をしたり証拠を残すことになっているのだが、日本では座っていた場所がひどく濡れて跡が残っていたと言われることが多い。特定のナンバーやボディカラー、車種を好んで乗りこんでくると言われることもあるようだ。

「青山墓地」のような目的地は語り手の年代や採集した場所によってさまざまに変化するが、逆を言えば、これらの話のバリエーションを採集することで、人々の生活誌の中で共通の役目を担っている場所やものごと(この場合は「幽霊がいる・集まりそうな場所」)や、地方や年代による共通項や差違を収集・分類し、さまざまな分析をおこなうことも可能になる。たとえば上であげた「座席がひどく濡れて跡が残っていた」という要素が日本でのみ有意に見られるものならば、それは日本の幽霊の特徴なのではないか、というように。

このシリーズは2冊目以降訳者が変わってしまって、「アメリカの新しいものを日本に紹介しよう」という意気込みが消えてしまい、同時に訳の質が大きく落ちてしまったのが残念なのだけれど、それはともかく4冊目のくそっ! なんてこったという題の本に、ブルンヴァンがニュージーランドを旅行した際の逸話がおさめられている。


1988年にニュージーランドを訪れた際、彼はある雑誌のなかに面白い記事を発見する。雑誌は『リスナー』というテレビ・ラジオ番組のガイド誌で、問題の記事は「水を満たした瓶を芝生の上に置いておけば、動物がその場所に糞をするのを防げるか」に関するものだった。ブルンヴァンが調べたところによると、この噂はオーストラリアからニュージーランドに伝わったらしい。

作法は日本の場合とほぼ同一である。1.25リットルの清涼飲料水のボトルに水を満たし、芝生の上に置く。ラベルははがしておくことが推奨される。もともとは高級住宅地でワインやリキュールのガラス瓶に水を入れていたのがはじまりだと語られることもある。動物が糞をしなくなる理由は、動物は自分の飲み水を汚さないから、瓶がきらきら光るから、水に写った自分の姿を見るから、などと説明される。動物を追い払うのは瓶それ自体であって、水はただの重りであると主張されることもある。

実際の効果はともかく、ブルンヴァンはニュージーランドのゆく場所ほとんどでこの瓶の姿を見たらしい。「芝生の手入れは全国的な熱狂のように思われた」と彼は書いている。本に引用された『ウェリントン・イーグニング・ポスト』紙の記事は、獣医二人の否定的な意見を載せたあとで、オーストラリアの獣医の話として、これは正しくおこなわれれば効果があるのだという説を紹介している。「庭全体を瓶で囲む必要があるし、水も新鮮なものでなければいけません。そして、適度に振動するように水を規則的に振らなければなりません」

帰国後、彼は新聞紙上で連載していたコラムにこのことを書いた。すぐさま反応があり、彼はカリフォルニア州から4通、ウィスコンシン州から1通の手紙を受け取った。手紙によると、サンディエゴでは1983年と84年に、水を入れたガラス瓶とプラスチック瓶が動物よけとして使用されたという。サンタ・クルーズでは1970年代後半に流行があり、ロス・ガトスやオークランドでも似たような動きがあった、とある。

まとめると、88年にニュージーランドで水入りペットボトルのブームがあり、それはオーストラリアから伝わってきたと言われていたこと。伝播関係があるかどうかはわからないが、同様の噂が70年代後半から80年代前半にアメリカでも流行していたことになる。

ペットボトルが遠ざけるもの (6)

(2003年9月22日)

ブルンヴァンとニュージーランドの話はそこそこ知名度があるようで、かつてこのことを調査したテレビ番組もあったらしい。ASHINOKO ONLINEというサイトの97年2月のコラム、「猫よけペットボトルの謎」には、次のような記述がある。

もうだいぶ前の話だけど、このうわさ、どこかのテレビがタレントを使って出所調査をしていた。そしたら、「出所はニュージーランドだった」なんて話になって、タレントは結構おいしい旅行をすることができたんだ。

でも、タレントが行ってみると、ニュージーランドでは「そんな話は知らない」と、みんな口を揃えて言っていたね。一軒もペットボトルを並べている家がないんだよ。結局本当の出所は判らなかったけど、東京の台東区あたりがペットボトル並べの発祥地らしいことがわかった。

97年以前のどこかで、実際にニュージーランドまで行って調査した番組があったらしい。話しぶりからすると『探偵! ナイトスクープ』かとも思うが確信はない。まあ、噂の発生源のようなものがあるにしろ、それはニュージーランドではないし、噂がニュージーランドから日本に直接伝わったかどうかもわからないのだが、ともかくニュージーランドの人たちは、ブルンヴァンが訪れたときはあれほど熱狂的だった水入りペットボトルの風俗をすっぱりやめてしまっていたらしい。


だが、たとえその風俗のことを覚えている人がいたとしても、番組の質問が「あなたは猫を避けるために使うペットボトルのことを知っていますか?」というものであったならば、答えはやはりノーだったにちがいない。

なぜなら、ニュージーランド、そして読者からブルンヴァンの元に集められた情報は、実に一件を除いてすべてが犬よけ水入り瓶に関するものだったからだ。彼のコラムの中に猫に関する言及はどこにもない。ただひとつの例外はウィスコンシン州からの情報で、ウォーキシャー付近では水入り瓶はを追い払うために用いられることになっている。

つまり、この伝説における動物は、『タクシーの幽霊』の「青山墓地」と同じポジションにある。アメリカ都市部やニュージーランドでは犬の害が多いので「犬よけ瓶」になり、別の場所では「兎よけ瓶」になり、猫の害が問題になっていた日本では「猫よけ瓶」として定着してしまったのだ。

この伝説がどこから日本に伝播してきたのかはわからない。日本で独自に発生した可能性だって皆無ではない。上のコラムでは台東区あたりを発祥とする説が紹介されており、ネット上には発祥地を荒川区、あるいは尾道とする例もある。あるいは伝播したての頃は、「犬と猫両方に効果がある」という言いかたがされていたのかもしれない。それが、猫害に対する関心が大きかったために「猫よけペットボトル」などの猫と関連した名称で呼ばれるようになり、猫との結びつきを強めたために、結果として猫にのみ効果があると考える人が出てきたとも考えられる。

ニュージーランドの犬よけ瓶の話は、やはりそこそこではあるが知名度がある。Googleの「犬よけ ペットボトル」と「猫よけ ペットボトル」の検索結果をくらべて、ヒット総数と出てくる内容の違いを体感してほしい。水入りペットボトルを「犬猫よけ」と捉えている人も少数ながら存在しており、しかもその多くはニュージーランドの犬よけ瓶の話を知っていることがわかるはずだ。一部にニュージーランド「発祥」と考えている人がいることもわかる。

その中でいちばんまとまっているのが、医学都市伝説というサイトに2001年に掲載されたコラム、「猫立ち入り禁止 −ペットボトル結界の謎−」だろう。これは記述者本人の生の体験を含んでいる点でも非常に興味深い。氏は94年のほぼ十年前、86年より以前にニュージーランドへ旅行した際に、この水入りペットボトルを実際に目撃されたそうである。

海外のWebサイトでは、上のサイトも参照しているSnopes.comの"Jugs of water left on a lawn will prevent dogs from defecating there"(芝生の上の水入り瓶が犬の排便をさまたげる)くらいしか言及がないのだが、それでもサンディエゴの新聞が86年の8月にこの話題を取りあげたこと、米国・カナダ・日本・オーストラリア・ニュージーランド・英国から報告例があることがわかる。記事の内容からは、どうも世界的には「犬よけ瓶」のほうがメジャーである印象を受けるが、あるいは犬に注目するあまり、ほかの動物のバージョンが見落とされている可能性もあるかもしれない。ともかく世界各地に流布する伝説であることは間違いない。

ペットボトルが遠ざけるもの (7)

(2003年9月23日)

でも伝説だからって、本当に効果がないとは限らないじゃない? そう思う人のために、噂の報告者たちはたいてい最後にこういう話を付けくわえることになっている。たとえば、ブルンヴァンの本に登場する報告者は、手紙を次のエピソードでしめくくっている。

(略)……けれども、彼女が考え出した巧みな工夫は、言うまでもなく異常なくらい鋭い嗅覚を持つ犬を防ぐために、瓶に防虫剤かアンモニアのいずれかを入れなければならないというものでした。

これは少なくとももっともらしく思われるものでしたが、わたしはそうした方法に効果があるとは全く思えませんでした。わたしの疑いは正しいことがわかりました。一ブロックほど行った所で、わたしの犬がプラスティックの瓶のひとつに直接お尻を持って行き、その上にバランスよく大きな糞をしたのです。

偶然にしては(それこそ都市伝説なみに)できすぎの話ではあるが、かくして噂は上から砂をかぶせられ、バインダーにファイルされ、好事家以外の人々からは次第に忘れられてゆくことになる。都市伝説の中には特定の年代あるいは集団の間だけで流布しつづけるものもあるし、廃れたと思っていたものがある日突然復活して昔を知る人を驚かせたりもするのだが、犬よけ瓶はそうではなかったらしい。ニュージーランドを取材したテレビクルーはペットボトルを並べた家を一軒も発見できなかったそうだし、「医学都市伝説」の管理人氏も、上のコラムの中で「NZ を含めて英米圏にはその後何度か訪れたが、このボトルをあれ以後見たことがない」と書かれている。

一方、日本の水入りペットボトルは、大ブームが去った以降も、特に住宅が密集した都市部を中心にある程度の市民権を持ちつづけている。最近ではNHKの「難問解決!ご近所の底力」の2003年6月26日放送分、『野良猫 増えて困ったニャン』の回で、効果のない方策のひとつとして、猫を使った実験映像をまじえて紹介されていたように記憶している。知名度はあるが効果のない方法としてメディアで紹介されるということは、水入りペットボトルの伝説が日本ではまだ生きているというなによりの証拠だろう。

でも、私はその番組を見ていないし、番組の実験が科学的な検証をきちんとクリアできるものだったかどうかまではわからないんじゃない? そう尋ねる人もいるかもしれない。あるいは、実験を見たことはあるけど、それは私の知っている正しい作法とは違っていた。だから効果がなかったのではないか、と。かくのごとく、疑おうと思えば疑う余地はあり、信じたい人はいつまででも信じられる。それこそが伝説の伝説たる所以である。

結局のところ、猫よけ瓶の話が都市伝説であるかどうかという問題と、猫よけ瓶が本当に猫に効果があるかどうかという問題は独立なのだ。猫よけ瓶の話が都市伝説であるかどうかを決定するのは、その噂に含まれている情報の正否ではない。決定を下す際に考慮されるのは、この噂が場所や時代に適したものを対象にして、ある部分は変化し、ある部分は一定にとどめながら広く流布し続けているという点にある。そして、いったん都市伝説であると定められたなら、個々の噂の信頼性は疑問視されるようになる。その程度のものでしかない。


それにしても、なぜ日本では、水入りペットボトルがここまで根強く生き残っているのだろう。日本にはなにか、水入りペットボトルが存続する固有の理由があるのだろうか。

水入りペットボトルは近隣の住人にメッセージを伝える手段であり、猫の外飼いに対するアンチテーゼである、という説は前に述べた。それならなぜ、日本ではテーゼを送りつづける必要があったのだろう。

ペットボトルが遠ざけるもの (8)

(2003年9月24日)

前にも述べたように、歴史を通じて、日本では猫の外飼い率が高かった。そして、外飼い猫は責任者の所在がはっきりしない場合が多い。前出の東京都動物愛護管理審議会の答申は、諸外国の状況を次のように書いている。

欧米では、登録や標識装着、屋内飼育を義務づけている国がある。猫の飼育世帯の割合は増加傾向にあり、アメリカやフランスでは現在約30%の世帯が猫を飼育している。欧米の都市においては、法的規制の有無に関わらず屋内飼育が一般的である。

目指す方向に都合のよい事例だけが取り出されている気がしなくもないが、欧米で猫の屋内飼育が一般的であるなら、それはこれらの地域で「猫よけ瓶」が登場しないことのうまい説明にもなっているように思う。Snopes.comで「犬よけ瓶」の報告があった地域は、どれも上の事例が想定するような、大都市の発達した欧米圏であった。

一方、犬の場合はまず間違いなく、飼い主がリードを引いて犬のそばに立っている。抗議する対象がはっきりしており、文句を言っても飼い主が糞の始末をしないなら、それは犬ではなく飼い主が悪いことになる。糾弾すべき人間の所在が明確で、(「犬よけ瓶」が周囲にたくさんあって)自分に賛同する意見が多いとわかっているなら、次のステップに進むのはたやすい。

裏を返すと、日本では外猫の風習が根強く、猫と飼い主が一緒にいないことが多いために、飼い主に直接文句を言うことが難しく、結果、飼い主に間接的にメッセージを送る方法が選択されたのではないか。京都に多い、立小便防止のための鳥居も想起されてよいかもしれない。


日本での発祥地として台東区・荒川区や尾道という、小規模な一戸建てが密集する地域が選ばれていることを考えると、日本の住宅事情にも原因がありそうである。

犬よけ瓶は芝生を守るために置かれるのだった。芝生を守る必要があるということは、犬よけ瓶が流行した地域は、玄関の前に芝生が植えこまれた、前庭のある郊外型の住宅地ではないかと想像できる。「医学都市伝説」のコラムでも、犬よけ瓶は「欧米の住宅はまず塀というものがなく、道から芝生の庭がそのまま望めるのだが、ここNZでもそれに習っている」とされる、「比較的高級な住宅街」に広まっていたことになっている。塀がなく、道路と前庭が連続しているから、飼い主と一緒に道を歩く犬が他人の家の芝生に排泄できるのだ。

日本の住宅密集率は、それらの住宅地よりもかなり高い。生活圏が深く重なりあうと、互いの生活領域に侵入しているという感覚や、互いの生活が干渉しあっているという感覚は強くなる。適切な心理的距離をとれない間柄で感情を直接ぶつけあうことは、しばしば深刻な結果を巻きおこす。また、あまりの密集率の高さから、対決の影響は当事者だけでなく、当事者と生活圏の重なりあう周囲の住民まで容易に及んでしまう。これがいわゆる「ご近所づきあい」というやつで、結果、これらの共同体では、激しい言葉やそれ以上の手段で意見を対決させることは忌避の対象となり、その中で生きるには、立ち振舞いから相手の心理を察しあい、思いやる技術が必要とされることになる。

有形無言の水入りペットボトルは、その点でも非常に都合がよかった。言葉を介さずに相手にメッセージを伝えることができ、相手がメッセージに従わない場合でも、先に共同体のコードを破ったのは向こうであるとして、他の成員に有利に働きかけることができるからだ。上の答申が、動物の適正飼育の方法は、「法的規制によるのではなく、人々の意見に基づく社会的ルールによって推進されるべきである」と述べているのは象徴的である。このような場合、法律で縛るよりも、まず共同体の慣習でやってみようとするのが日本の在りかたであるらしい。


一方、外国では同じものが行政による立法や規則として、明文化した形であらわれる。飼い主に課されるのはマナーではなく、ルールである。

たとえば「医学都市伝説」の管理人氏が訪れたニュージーランドのオークランドでは、96年に「犬の管理に関する条例」("Dog Control Act") が改正されて、犬を飼うには試験をともなう有料の認可登録を受けなくてはならなくなった。飼い犬を適切に扱わない場合は罰金の対象となり、ひどい場合には認可の取消しが行なわれる。この条例は1982年の「犬の管理と包虫に関する条例」("Dog Control and Hydatids Act") とその修正案を置き換える形で成立したもので、犬の落し物を適切に処理しなかった場合も罰金の対象となる。オークランド市Webサイトの犬関連条例とガイドの豊富さを見ていただきたい(条例類の部分的な日本語訳の紹介としては、動物新聞というサイトの「外国の規則 ニュージーランド」が詳しい)。「動物新聞」によると、アメリカの場合も州や都市によってはこのような認可認可登録制や罰則が採用されているようである。

つまり、これらの国や州では、犬の飼い主に強い資格制限や罰則、財政的な負担を課すことで、他人の犬に迷惑をかけられた人々の不満をそぐことに成功し、その結果、犬よけ瓶を使用する人々もいなくなった、ということにならないだろうか。

しかし、これを共同体の慣習に頼る日本と法規に頼る諸外国の違いと言って終わってしまうのはアンフェアすぎる。犬よけ瓶が消え、猫よけ瓶が残っている理由はそれだけではない。

ニュージーランドは牧畜が盛んな国で、人と犬との関わりが非常に深い。条例が制定されている動物は犬だけで、ほかの動物を飼育する場合は認可は必要ない。

また一般に、犬は猫よりも体格が大きく、攻撃性も高いと見なされている。日本でも2002年に環境庁から出された「家庭動物等の飼養及び保管に関する基準」で「犬の所有者等は、さく等で囲まれた自己の所有地、屋内その他の人の生命、身体及び財産に危害を加え、並びに人に迷惑を及ぼすことのない場所において飼養及び保管する場合を除き、犬の放し飼いを行わないこと」と定められおり、自治体によってはより厳格な、罰則をともなう条例を制定しているところもある。環境庁の告示は、1975年に総理府が出した「犬及びねこの飼養及び保管に関する基準」を置き換えるものだが、この中にも「犬の所有者又は占有者は、犬の放し飼いをしないように努めること」という記載があった。ふたつの告示の中には猫に関する部分もあるので読みくらべていただきたい。猫に関する記述が犬に比べてずっとゆるやかなのが分かるはずだ。これは日本に限ったことではなく、先のオークランドでも、猫は動物一般の中で触れられているに過ぎない。

犬と猫の性質、あるいは飼いかたに対するコンセンサスの違いがあるために、猫に対して法的に規則をかけるのは、犬の場合よりもずっと難しいことがわかる。これも猫よけ瓶が犬よけ瓶より長く存続した理由の一つだろう。そして犬と猫の性質の違いは、最初に述べた日本での猫の外飼い率の高さにも結びついている。


もう一度まとめ直してみる。猫は性質ゆえに外飼いが容認されやすく、日本ではそれが風習として長く続いてきた。都市の住宅密集率上昇にともなって住人と猫の数は増加し、猫を不快に思う住人も増えてきたが、飼い主が不明確である場合が多く、判明した場合でも飼い主に直接抗議して共同体に波風を立てるのははばかられた。そこで間接的にメッセージを伝える方法として水入りペットボトルが採用されたが、猫の飼いかたを法律で規制するのは犬よりも難しく、行政は法による急激な変革よりも共同体の慣習を利用してゆるやかに状況を変化させてゆくことを望んだので、この風俗はいまも存続しつづけている。これが日本で水入りペットボトルが生き残りつづけている理由ではないだろうか。

備考1

共同体における間接的なメッセージ伝達、という話題が出たついでに、水入りペットボトルは日本人の精神生活、または信仰にもうまく調和するものではなかったかという話をしておきたい。

清めの水や禊ぎという言葉があるように、日本人の心のうちには、水は清浄なもので、穢れや魔を祓うという概念がある。ペットボトルに注がれるのはたいていの場合ただの水道水だが、透明なペットボトルに水を張ったものは、ボトルや水が汚れていなければ非常に美しく見えるものである。この美しさから、人々はペットボトルの中の水を、普通よりも高い清浄性を獲得した水と見立てたのではないか。

また一般に、ペットボトルのなかに入れたものは性質が劣化しにくいと思われている。高い清浄性を持つ水を、その清浄性が失われないようにひとつところに封印したもの、それが日本人の精神生活における水入りペットボトルではなかったか。その上で、水入りペットボトルを複数配置すれば、それが一種の結界をかたちづくって内部は特別な空間となり、たとえ動物でも畏れて内部に立ち入らないか、内部を排泄物で穢すことは憚ると考えたのかもしれない。

建物の角にペットボトルを設置する例は、地鎮祭に際して四方に盛り塩をするものや、これも京都に多く見られる、鬼門よけに建物の壁や塀を欠け込みさせた部分に岩石を設置する風俗(「角石」などと呼ばれる)を想起させる。これらのしきたりに馴染みのある人にとっては、水入りペットボトルもまた受け入れやすかったのではないだろうか。そして、新しい動物祓いのおまじないとして、ブームが廃れた後も設置を続けたのかもしれない。

備考2

僕は都市における動物の管理と愛護という問題を責任を持って論じる資格などまったくない人間なのだけど、話のついでとして、現在の日本の動物愛護・管理政策と運動についても軽くふれておきたい。

先の審議会の答申を受けて東京都が実施している「飼い主のいない猫との共生モデルプラン」の中にこんな一節がある。

これまで「飼い主のいない猫」については、ふん尿やいたずらなどの被害があっても、対策がありませんでした。また、かわいそうだからと餌を与えるだけの人もいます。

飼い猫であれば飼い主に苦情を言うこともできますが、相手が「飼い主のいない猫」では不満の持って行き場がなく、結局被害を受けている方は猫を憎むようになってしまいます。 その結果として、餌を与えている人との感情的な問題や、猫を傷つける事件などが起きることにもなります。

猫の被害を受ける人の心に添い、一定の理解を示そうとする姿勢が見えるのが興味深い。

「地域猫」という活動も一部で盛んになりつつある。実際の活動がどのようなものであるかは、それこそ地域によってさまざまな差があるようだが、理想としては、地域に住む飼い主のない猫を捕獲・避妊手術をほどこした上で一部を地域に戻し、縄張りを作らせて外部の猫の流入をふせぎ、最終的には飼い主のない猫がなくなるようにする運動だと理解している。

上のモデルプランや中野区の「猫の飼い方、地域でのつき合い方」の中の「飼い主のいない猫への対応」の項を見ると、文書の中でかならず「その地域にお住まいの皆さんの合意のもとに」「住民の合意形成」「『必ず近隣の方々の理解を得て』から」という言い方がされているのが目につく。3年間で地域ののら猫の6割の不妊去勢手術を進めたという「ちよだニャンとなる会」(→東京新聞の記事)でも、「会の副会長五人のうち、二人は猫嫌い」なのだそうだ。これらの運動のなかに見られるのは、猫好きでない人の声を運動のなかに反映させようとする姿勢であり、またそのようにしてはじめて、それらの猫を「地域猫」と呼ぶことが可能になるものなのだろう。

日本の動物愛護・管理政策は、「動物好きの人」と「動物」の間だけでなく、その二者に「動物を好きでない人」を加えた三者間のものに変化しつつある。水入りペットボトルはこの動きを導く胎動だった、と言うことはできないだろうか。すくなくともその大ブームは、政策や運動に影響を与えるべくして立ち上がってきた一部の市民感情を象徴する出来事だった、とは言えるように思う。おそらく水入りペットボトルのブームによってはじめて、「動物を好きでない人」「動物に迷惑している人」が、一部の例外的な偏屈者ではなく、身近にいるごく普通の隣人として発見されたのだ。水入りペットボトルは猫も犬も遠ざけなかったが、すくなくともなにかを引き寄せはしたのだった。


2000年の秋に、毎日新聞で「『死』の現場を歩く 第一部 ペットの行方」という特集記事が連載された。動物が商品として大量消費される時代の歪みと、その後処理に携わり、まるでそれも後処理の一環であるかのように非難の対象となる人々。現代の動物愛護と管理を考えるうえで、これも忘れてはいけない問題だと思う。