- ジャンル:
- まんがかんそうぶん
- シリーズ:
- 種類:
- 読みもの
- 最終更新:
- 2005年09月13日 14時51分
- シリアル:
- 2004-04-30-05
あらすじ
公園でおえかきをして、水鉄砲でたわむれて、ケーキを買ってプールで遊んで、とりたててすごいことが起こるわけではないけどおかしくて、どこにでもある日常みたいだけど、でもやっぱりほかのどこにもない、よつばといっしょの夏のまいにち。きょうもあしたも夏だけど、恵那のともだちのみうらちゃんとなかよくなったり、あさぎが旅行へいっておみやげをもって帰ってきたりと、夏はどの日もおなじじゃなくて、いつまでも変わらないようですこしづつ進んでゆくのです。読むと元気になるかもしれない、あずまきよひこの夏休みコミック第二巻!
単行本の情報
電撃大王2003年10月号から2004年4月号までに掲載されたよつばとおえかき・よつばと復讐・よつばとケーキ・よつばとどんまい・よつばとプール・よつばとかえる・あさぎのおみやげの8話〜14話までの7話分を収録。各所に話の隙間を埋めるようなおまけイラストが入っています。
感想
あずまきよひこってふつーにひどい人だと思うんです。あずまんが大王では、榊さんはいつまでも猫に噛まれ続けるし、ゆかり先生はテレビの衝撃シーンでげらげら笑うし、ちよちゃんは完璧超人の人生勝ち組だし、よみは熱を出してひとりだけマジカルランドに行けないし、大阪は存在を忘れられるし、ともはマヤーにバリッといかれるし(これは自業自得だけど)、ひどいというか無神経というか薄情というか、この人の漫画には人道や博愛というものをあんまり信用してない雰囲気がある。目にお星さまが入ってないと言うか。
とはいえあずまきよひこはいい歳をした大人でもあって、汚いものをわざわざ自分からばらまいておきながら、この汚さから目をそむけるやつは現実を直視できない駄目なやつだと読者を説教するような面倒くさいことはしないのです。だからこっちも安心して読める。バランス感覚も持っていて、ひどい目にあったキャラも長期的にはだいだいフォローするし。
なんというか、あずまきよひこのひどさは常識人のひどさなのですね。ふつうの人が普通に持っていて、ふだんは学習して身につけた常識や道徳でコーティングして隠している無神経さや非常識のひどさを、この人はなんでもないことのようにぽんと投げてくる。そこに一種の爽快さがあって、こういう感覚は自分にもあるなあ、あったなあ、と思える人には笑えて、逆にそこが引っかかって俺こういうの駄目だわ、と思う人もいる。系統としては、やはり4コマ漫画の流れからもらってきたひどさなのでしょうか。(いがらしみきおとかからの流れ?)
あずまきよひこはそういう自分の特質を把握したうえで、作品に生かす方法をうまく考えています。上で語ったようなひどさは、隣の家にあがりこんで水鉄砲を乱射したり、人の家の冷蔵庫を勝手にあけたりする幼児の非常識さ──というか無常識さ──にうまくフィットするし、これもこの人に特徴的な台詞回しはそのまま幼児の突飛な言動にあてはまる。クレヨンしんちゃんを典型とする、発想の突飛さと行動の非常識さで幼児の幼児性を表現するやりかたを、この人は自分の持ち味でクリアしてしまうのです。ただあずまきよひこはそれだけじゃない。別の方法もちゃんと用意している。
よつばくらいの歳の子供って、感情のキャパシティが小さいんです。ほんのちょっとしたことですぐ落ち込むけど、またすぐに元気になる。小さなことを全身でおおよろこびして、容量を越えた出来事に会うと動きが止まってしまう。よつばの細かい描写を見ていると、この人は観察眼が鋭いなあとしばしば思うわけですけど、そういう作者の目の良さはよつばの感情の動きにもよくあらわれています。そしてこのキャパの小ささをどう表現するか、というところに、あずまきよひこならではのセンスがある。
よつばの世界では、とーちゃんはいいもので、えなやふーかやとーちゃんは嘘なんかつかなくて、だからよつばは絵がうまいはずだし、ケーキの苺は自分が食べないかぎりなくならないものなんです。あずまきよひこは、この、よつばがいままで信じて信頼してきた世界が一瞬にして崩壊する瞬間を描くのです。それは当の子供にとってはかぎりなくトラウマチックなイベントで、本当にもう世界の終わりのようなインパクトがあるのだけれど、外側から眺めたときにはとてつもなく面白い出来事でもあることを、この人は知っている。
翻訳家の小岩井さんは多少しっかりしていないところはあるけど普通の人だし、クーラーは環境に影響がないわけじゃないし(ヒートアイランド現象とかね)、よつばの絵は上手じゃないし、ケーキの苺が他人に奪われることもある。それがこの世界の成り立ちです。夏休みがいつか終わるように、よつばもいつかはそのことに気がつくのでしょう。でもそれはいまじゃなくていいのです。だってよつばはまだおなにも知らない馬鹿な子供で、それにだいいちいまはまだ夏休みなのだから。賢しげに真実を語って聞かせてもどうなるものでもない。
だからあずまきよひこは嘘をつくのです。まるめこんだりごまかしたりして、よつばがいままで信じていた世界を回復しようとする。回復するために周囲の人物が悪戦苦闘するさまがまた面白いし、そのような世界の回復はまた、読んでいる人にとっての願いでもある。そして物語の中で世界はめでたく回復され、読者はその手際に喝采をおくりながらページをめくるのです。
話のあちこちに配置された要素や単行本のあちこちに追加されたおまけイラストを見てもわかるように、作者はかなり心を砕いて、よつばと!の世界が漫画に描かれていない部分でも続いていることを表現しています。キリがいいのか悪いのかよくわからない、余韻があるようなないような変にすとんとしたオチが多いのも、たぶんその延長感を出すための意識的な手法だと思う。
また、よつばに水鉄砲を突きつけられたときの綾瀬家の人々の対応やケーキを選ぶときのみうら・恵那・よつばのふるまいの違い、プールに突き落とされたときのジャンボ・とーちゃん・風香のリアクションの描写にあらわれるように、この人はキャラクターの個性を、ひとつのシチュエーションを与えられたときの行動の違いで表現しようとするのですね。極端な記号化に頼らず、キャラクターの差異と互いの関連性の具体化で個性を表現している、と言い換えてもいいかもしれません。
たとえばプールの回やおみやげの回の風香などは、すごく凡庸というか普通人っぽさを漂わせながらも、同時になんともいえない妙な味わいを醸し出しているわけで、これはなかなかたいしたもんだと思うのです。プールに落ちるところの描きかたは三人ともほとんど同じですけど、この場合、この類似性は風香がとーちゃんやジャンボに近いキャラクターであることの描写なのですね。風香は二人にタメ口きかれてるし。で、風香は綾瀬家のなかでは異端で、ふたつの家の架け橋になっているという。
えー、話を戻すと、あずまきよひこのこういう技量は、アニメのパロディをやるうちに培ってきたものなのかな、と思います。
アニパロをやる場合、まずできあいの世界があって、その自然な延長に見えるように話をつくる必要があるわけです。また、読者のあいだには、キャラクターの性格やカップリングに対する暗黙の了解がもうできていて、そこから無防備に逸脱すると、「こんなのは○○じゃない!」という激しい非難をあびることになる。だからベースになる世界やキャラクターの特性や関係を前もってきちんと把握しておく必要があって、いまあずまきよひこはその作業を一部反転しながら自分の作品にも生かしているのではないか、という感じがするのです。
あとひとつ、ぜひとも触れておかなくてはならないのが風香の胸の素晴らしさです。いや、そうじゃなくて。風香の着ているTシャツの、道具としての妙の話です。
みなさんよくご存じのとおり、よつばと!が掲載されている電撃大王という雑誌は健常男子よりもやや鼻息の荒い少年青年大人たちを読者として想定しているわけで、連載をおこなうにあたっては、そういう読者のためのサービスが必要になるわけです。だけどサービスといってもただ乳を外部を放り出せばそれでオッケーというものではない。電撃大王の読者層は売り手のあざとさみたいなものに敏感だから、安易に露出すると逆に引いちゃったりする。だからそこにテクニックが必要になるのです。
風香のTシャツはだいたい中央部に妙なデザインがプリントされていて、これは風香の微妙なずれ具合いを示すアイテムのひとつになっています。しかしそれだけではなくて、この妙なデザインがあるおかげで、作者は読者の視線を合法的に風香の胸に集めることができるのです。しかもデザインの奇妙さで笑わせることによって、読者の陽物の陰気とでも呼ぶべきものが風香の胸の谷間に溜まらないようにしている。そういうのが淀んじゃうと誌面から不穏なものが涌き出して雰囲気が悪くなってしまうから、からっと笑い飛ばしちゃうのです。これはやっぱりあずまきよひこの着想の妙だと思う。
あと、関係あるのかないのか微妙な話ですけど、風香のおっぱいって生活感がありますよね。いい感じなんだけど理想のおっぱいっつう感じでもないというか。重さがある。あのおっぱいには重さがあるんだ。
その他
おわりの予行演習──よつばと! (3)
(2005年1月18日)発売日から一ヶ月以上経過したよつばと!3巻の話をいまごろ。2巻のレビューで「夏休み世界の崩壊と再生」の話をしたので、それが3巻でどのように発展したかをちょろっと語ってみます。
バドミントンがうまくできない、あさぎがおみやげを買ってこない、線香花火がすぐ落ちちゃう(16話)、綾瀬家の扉が開かない(18話)、花火大会で迷子になる、ヨーヨーを落として割っちゃう(21話)、等は、1〜2巻で出てきた「夏休み世界の崩壊」に相当するイベントです。ただ、3巻ではこういうイベントに対するよつばの反応が変わってきている。1〜2巻ではただ呆然とするだけだったのに、3巻ではよつばなりに折り合いをつけたり、対応を考えたりしはじめています。
バドミントンや線香花火のとき、よつばは「あははは」と笑いながら「な──!?」「よつばのはすぐおちるんだー」と言ってますが、これは笑って恵那に共感を求めることで、(恵那と自分の心理状態が同じ高さであることをアピールして)ショックを受けていないふりをしているんだと思います。バドミントンの時は「あれ」という顔をしているし、線香花火のときの表情はしっかり悲しんでいる。
あさぎがおみやげの話をわすれたふりをしたときや、綾瀬家がお盆で家を留守にしたときは、自分なりに考えて「ああ、おみやげないんだ」「ばーちゃんちに行ったから留守なんだ」と結論を出している。お盆のときの「なーんだ なーんだ」は、やっぱりショックを受けてないことのアピールです。おみやげのときはショックが大きすぎたのか、装うのも忘れて肩を落として帰ってゆくわけですが、それでも帰る前に「本当に買ってきてくれなかったのかな。ほんとにほんとかな」とあさぎの顔を再確認している。花火大会のときも、もしかしたらこうすれば生きているうちにもう一度とーちゃんに会えるんじゃないかと考えたから「こいわいよつばです」と連呼したんです。
自分じゃどうにもできないときもあるけれど(そんなもん大人にだってありますね)、恵那に線香花火が長持ちする方法を教えてもらったり、みうらにヨーヨーをもらったりと助けてもらいながら、よつばはすこしづつ悲しい出来事に対応する方法──ウォーターシップ・ダウンのうさぎたちで言うところの「サーン」状態から回復して走り出す方法──を身につけはじめている。たとえば風香と「とっくん」して、バドミントンをゲームとして楽しむことができるようになったりとか。そしてそういう「ちいさな喪失」の繰り返しは、やがて来る夏休みの終わりに対する予行演習になっている──のです。たぶん。
あずまきよひこは「ほぼ同じ内容のコマを連続させて差異を際立たせる」「ひとつのシチュエーションにおける人物の対応の違いを描写する」という手法を多用する人で、僕はこの手法を頭のなかで勝手に「差分法」と呼んでるんですが、バドミントンのエピソードは小ネタの差分なのに話をまたいでいます。2巻最終話の「あさぎのおみやげ」以降、前後編みたいな連続性の強いエピソードが増えている印象があるのですが、この「小ネタの話またぎ」も、エピソードの連続性が強まっていることを示す材料なのかもしれません。
あと、いつかネットのどこかで、「あずまきよひこは多彩なカケアミを多用する」という意見を読んでなるほどと思った覚えがあるのですが(2巻発売時によつばスタジオで特別開設されたおえかき掲示板の書きこみだったかな)、そう言われてみるとあずまきよひこのカケアミや線の描きかたに独特のセンスがあります。こういう線の描きかたは製図的なセンスなのかなあ、と思ったりしますけどどうなんでしょ。

