- ジャンル:
- まんがかんそうぶん
- シリーズ:
- ざっしかんそうぶん, 雑誌感想アーカイブス
- 種類:
- 読みもの
- 最終更新:
- 2006年10月10日 19時24分
- シリアル:
- 2004-12-25-01
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ハウルの動く城を見てきました。前々からどうこう言われていた木村拓哉の声ですが、実際に見てみるとあんまり気にならなかったなあ。けっこうはまっていた気もする。(まあ、僕はもののけ姫の石田ゆり子の声もたいして気にしなかった人間なのであてにならんですが)
で、僕は原作の小説を読んでいないので、あの展開が原作どおりなのかどうか知らないまま語ってしまうのですが、後半の展開からは千と千尋のときに感じた投げっぱなしの香りがぷんぷん漂ってきたことはここに証言しておきます。はじめからつじつまを合わせる気がないというか、爺さんが後先考えずに好き勝手やってると言うか。面白くなかったかと訊かれると、そういう好き勝手加減はけっこう面白かったんだけど。
ただ訳はわからんですね。映画館を出たときに、前を歩いている人たちが「いや、よくわからなかったけど奥深い感じはしたよね」という話をしているのが聞こえてきたのだけど、そういうふうに煙に巻かれてしまうしかないくらい支離滅裂で収拾がついてない。ただ、おなじように物語の形式を飛び越えて好き勝手やっちゃった千と千尋の神隠しと対置すると、ちょっと面白い構造がある。宮崎駿はハウルの動く城で他人の尻拭い(なのか、ジブリ内部で起こったことに対する尻拭いなのか、僕はよく知らないのですが)をしながら、千と千尋で描ききれなかったことをついでに済ませちゃったんじゃないか、という感じがします。
千と千尋でいちばんわからないのは、「カオナシ」がなんであるか、です。ファンタジーにはカオナシ的なキャラクターの類型がいくつかあるけど、カオナシはそのどれにもうまく当てはまらない。類型だと、主人公またはほかの人物の半身である、というのが本命で(この場合、たいてい最後で融合を果たします)、役に立たないように見えて重要な役割を負わされている、というのが対抗だけど(指輪物語のスメアゴルはこれです)、カオナシはどちらにもならずに、小さくしぼんでうやむやのうちにフェードアウトしてしまう。
千尋にだけ見えるカオナシ、千尋に招き入れられるカオナシ、というモチーフは千尋とカオナシの関連を匂わせるし、いっぽうハクの「白」に対してカオナシは「黒」で、両者は千尋にニガ団子の半分をあたえられて回復するという点でも共通している。だからファンタジーを読み慣れた人は、カオナシは千尋の失われた部分か、自分ではこれと認めたくない負の部分か、そうでないならハクの失われた部分なのかな、と予想しながら映画を見ていたはずです。
ところがカオナシは劇中でどこかに着地するのを放棄してしまう。カオナシが出てくるのは千尋が千になる前だし、真の姿をあらわすこともないし、誰かと融合することもないし、なにか重大な役割を果たすわけでもない。カオナシはなにものでもない言葉どおりの「カオナシ」になって、物語の構造からは意味付けられない、なんとも収まりの悪い存在になってしまう。
これは逆に言えば、「カオナシ」がなんであるかは観客が自由に決められる、ということです。劇中のカオナシが、何者かの欲望を読み取ってそれを無尽蔵に叶え、そのかわりその者を内側に呑んでしまう存在であったように、観客と対置されたとき、カオナシは観客がそうであってほしいと思うものになんでも姿を変える、いわば「負の鏡」として機能する。ひところ流行った心理ゲームのように、カオナシを何と見るかで、その人がなにを嫌っているか、なにを醜いと思っているか、世の害悪をなにに背負わせたいと思っているかを読み取ることができるのです。
だからカオナシはカオナシのままにしておくのがいちばん安全であって、下手に意味付けようとするからおかしくなる。「カオナシはアニメ世界の少女を求めるひきこもりのオタク青年で……」という論を張るときには、カオナシに偽金をばらまかれて喜んでいる周囲の蛙やなめくじも視野に入れておくべきだし、現実の日常世界で子供の欲望をかなえてスポイルしているのは、消費専門で子供との接点がそもそも少ないオタク青年ではあり得ないことも考慮しなきゃならない。それを忘れて、カオナシは宮崎駿によるオタク批判だと言うのは、空虚なだけでなく危険ですらあります。最近の「フィギュア世代」発言でもそうですけど、農耕のかわりに賃金労働が中心となった現代社会において、オタクは一種の漂泊民ライクに社会の負の部分を押し付けられているんじゃないかとか思ったりします。そういう意味でこそ、オタクはカオナシ的な存在なのかもしれない。(まあそう言いながら、僕も宴会場で千尋に迫るときのカオナシは諸星あたるみたいだなあと思ったりするのですけど)
話を元に戻すと、ハウルの動く城では、千と千尋のカオナシがそうなるかもしれなかったモチーフのひとつが実現されています。公開されたばかりなのでどう実現されているのかは語りませんが。そういう意味では、それまでの宮崎駿作品の締めくくりとして観ると感慨深かったもののけ姫とおなじように、ハウルの動く城は千と千尋に対するひとつの決着として観ると面白い作品です。他人の原作を使ってそれをやっちゃうのはどうかと思いますけど。
……というわけでアフタヌーン2005年2月号の話を。(前置き長いな)
- おおきく振りかぶって
やるんじゃないかとは思っていたが、開会式で一話使っちゃったよこの漫画は。
田島のキラキラとか泉の浜田あしらいとかが面白い。父母会ができたあとの父母の描き分けがいまから気になる。父母の年齢だとにきびも使えないしなあ。
単行本第三巻は2005年1月21日発売予定。
- ヒストリエ
むう。先が読めない。(とか書きつつ予想しては楽しんでるわけですが)
- 蟲師
「奇跡と言えた」って地の文で言っちゃうのはどうかなあ。
- げんしけん
やはりアニメ放映中はサービス期間だったか。
- リトル・フォレスト
いきなり見ず知らずの外人とクリスマスを祝うのって困るだろうな。いきなり空から女の子が降ってくるのとどっちが困るだろう。
- ラブロマ
印象的な場面を描く技術に磨きをかけてきた感じ。
- 神社のススメ
漫画だなあ。
まあ、漫画だけど。
- G組
タモリ似てないな。
- ラブやん
友人に発見された特殊な傾向のエロ本を「あ、それ? 表紙買いしたら中身そんなんでさあ。困っちゃうよねホント」と笑ってごみ箱にポイしておきながら、やっぱりもったい気がして深夜にこっそりゴミ捨て場まで回収に行ったあげく再利用しているような漫画だと思った。長いうえによくわからん喩えだけど。
- すずめすずなり
今月は面白かった。キャラクターの空回りっていうのはただ空回っていればいいというものではなくて、読者の心をつれて空回らなければならないものなのだなあ、とか思ったり。あとは「アフタヌーンって知ってる?」とか。
445ページの1コマ目でふと閃いたので、主人公の愛称は「ジョゼ山」にしようと思う。
- おお振り広告。
あれ。一気にふたり使っちゃうんだ。
- ぺし
なんかちょっと許せてきた。継続は力だなあ。
- ミミア姫
モノローグばっかなのは味だからべつにいいとして、いかにも連載狙ってますみたいな話の造りかたはどうかと思った。
- 05:45 水之宮
クライマックスのところでもうすこしタメが欲しいような。
- 忘れる
ハッタろうという気概はわかる。けど、ハッタれてない。
この人みたいな線の細さや画面の白さを生かす画法の人には、黒田硫黄的なハッタリはいらないんじゃないか、と思ったり。でもいろいろな方向性に挑戦するのは良いことだと思います。
- Ordinary±
ハッタろうという気概はわかる。けど、ハッタリ力が切れてる。肝心なシーンに限って切れてる気がするのはなぜだろう。
で、話をもういちど宮崎駿に戻すと、そういう無茶が許されるということは、宮崎駿は以前からあこがれていたはずの(天空の城ラピュタにおけるモグラの爺さん、千と千尋における釜爺に相当する)偏屈的地下技術長のポジションにまんまと収まってしまったということでもあるのでしょう。それはそれでめでたいことではあるのだけど、でもそれはきっと、宮崎駿が極彩色の曼陀羅を描いたり、自宅をワンダーランド的博物館に改造して喜ぶタイプの老人についに本当に成り上がってしまったということでもあるわけで、そう考えるとすこし寂しい気もします。
しかし今月号の裏表紙は見れば見るほどヤクいよなあ。
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