翻訳メモ:Persian Gate

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【こんなのどうでしょう?】グランド・セフト・オートIV【CEROレーティング「Z」】
ジャンル:
Diary
シリーズ:
ほんやくメモ
種類:
読みもの
最終更新:
2007年02月05日 13時09分
シリアル:
2006-12-12-01

Companion Cavalryを調べている最中に、About.comで出会った。Companion Cavalry of Alexander the Greatの項目によると、

The Companion cavalry, under the lead of Philotas, was important at such events as the Battle at the Granicus, in June 334, during the siege of Tyre, at the Battle at Gaugamela in October 331, the Battle at the Persian Gate, and in the pursuit of King Darius of Persia.

とある(強調は筆者による)。アレクサンドロス大王の遠征中、ガウガメラの戦いから首都ペルセポリスの陥落までに、そのような戦いがあったらしい。「ペルシャ門の戦い」と訳すべきだろうか。

検索エンジンで調べてみたところ、Wiki Classical Dictionaryに次の記述をみつけた。

この文章はLivius.orgからの転載で、元のバージョンには「ペルシャ門」周囲の写真や地図が多数掲載されている。

Persian Gate

Persian Gate: mountain pass in the Zagros. Alexander was almost defeated here in the first weeks of 332 BCE.

(中略)

Here, the Macedonians prepared themselves for the passage through the Persian gate (Darvazeh-ye Fars), northeast of Yasuj. However, the satrap of Persis, Ariobarzanes, was aware of the movements of the Macedonians and had taken countermeasures.

「ペルシャ門」といっても、実際に門があったわけではなく、Zagros山脈の峠道のことをそう呼ぶらしい。アレクサンドロス大王はここで危うく破れそうになったとある。

ガウガメラの戦いのあと、大王はBabyloniaとElamを攻略する。冬が始まる前にペルシャを十分に掌握したいというのが大王の考えだった。最初のうち、彼の道程はたやすかった。というのは、名高い「王の道」がElamの首都であるSusaまで繋がっており、さらに東に位置するPersepolisとPasargadaeにも続いていたからだ。

Urkutir(現在のShushtar)でPasitigris川を渡ったあと、Masjid-e Solaiman地域のレジスタンスを処理するため、マケドニア軍は現在のHaftgel近くで分割される。大王の将軍であるParmenionが軍の半分を率いて王の道を行き、大王その人はZagros山脈を通るより危険な道を取ることになったのだ。牧畜民の集落であるUxiansが虐殺にあったあとでは、彼の通過を妨げようとする者は誰もいなかった。なんの障害もなく、アレクサンドロスはMarun川(ElamとPersisの境界)を越え、現在のYasujの北に位置する平原に到達した。

ここで、マケドニア軍はYasujの北東にある山峡、ペルシャ門 (Darvazeh-ye Fars) を通過する準備をはじめる。しかし、ペルシャのサトラップであるAriobarzanesはマケドニア軍の動きに気がついており、対抗するために策を講じていた──。

マケドニア軍は川沿いの峡谷をまっすぐ東に入って山脈を越えようとする。左右の丘にはペルシャ人達の姿が見えていたというが、抵抗を受けなくなって久しかったマケドニア軍は、これを単なる避難民と見たらしい。頃は日の出から数時間。東へ向かうマケドニア軍の視界は日に遮られている。はじめ広く通りやすいように見えた道は、曲がり角を過ぎたところで急に狭くなる。先頭が谷間にある小川の合流地点を越え、殿軍が谷に入りはじめたとき、マケドニア軍は道を遮るかたちで壁が築かれているのを発見する。そこでペルシャ軍の反撃がはじまった。

左右から岩石を蹴落とされ、カタパルトや弓矢による攻撃を受けて、マケドニア軍は退却を余儀なくされる。これはHalicarnassusの攻城戦以来マケドニア軍がはじめて体験した挫折であり、ペルシャ側の最後の成功であった。このあと、大王は夜半迂回路を使って山中のAriobarzanesの陣地を包囲し、ペルシャ軍を殲滅したという。


さて、訳語の話。Farsは「ファールス」で、これはペルシャの名の由来になったパールサのアラビア語化だから、読みは分からないけど、"Darvazeh-ye"の部分が「門」を指すのだろう。("Darvazeh"で検索してみてもどうやらそれっぽい) どちらにしても、意味は「ペルシャ門」であるわけだ。

Yasujはどう読むんだろうと検索。Search.comに、Yasujの項目を見つけた。これは米Wikipediaからの引用。

Yasuj is the capital of the Kohkiluyeh and Buyer Ahmad province in southwestern Iran. Its covers an area of approximately 15,563km.

それではと、こんどはKohkiluyeh and Buyer Ahmadで検索。日Wikipediaの記述が引っかかった。コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州はイランの州で、州都はヤースージュとある。Yasujはヤースージュと読むらしい。どうもイスラム圏の用語は読みにくい。Zagros程度なら、リーダーズにも「ザグロス山脈」と記述があるが、ちょっとマイナーなものになるともうお手上げだ。上の州の読みかたなんて、当てずっぽうでは絶対出てこない。

日Wipipediaの記述をさらにたどると、「観光」の項目の下に以下の記述があった。

  • タカーブ山峡はアレクサンドロス大王とアーリユー・バルザンが遭遇した地。またドフタル、マーンギャシュト、ライースィー、ソレイマーンなど多くの古城塞があり、これをまとめて「デリー・メフルガーン」と呼び、有名である。

「アーリユー・バルザン」はAriobarzanesのことだろうか。さきほどのWiki Classical Dictionaryを参照すると、Ariobarzanesはペルシスのサトラップで、古いペルシャ語ではAriyabrdnaと表記するとある。

歴史上には、同じ綴りで「アリオバルザネス」と呼ばれる人がいるが、アレクサンドロスと戦った人物に関しては、Web上でこのように表記した例は見つけられない。"Ariobarzanes"で検索すると、同じ人物を"Ariobarzan"と表記している例があり、とくにイスラム圏で後者の使用例が高くなることから、"Ariobarzan"のほうがネイティブの発音に近いのではないかと思われる。とすると、(検索してもほかに例を見つけられないものの)日Wikipedia の「アーリユー・バルザン」は悪くない表記だろうか。


話をPersian Gateに戻すと、書店でチェックしたところ、専門書ではないものの、「ペルシャ門の戦い」を使用している歴史関連本が見つかった。「Persian Gateの戦い」に関しては、そのまま「ペルシャ門の戦い」と訳して問題無さそうだ。ほかの候補は「ヤースージュの戦い」「タカーブ山峡の戦い」。